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自分の好きなこと、得意なことで、子供たちに喜んでもらえたということが今の仕事の原点

--どんな学生時代でしたか?

私は絵を描くのが好きだったので芸術系の大学に進学しました。でも、金銭的に余裕が無かったこともあり、アルバイト三昧でしたね。皿洗いやウェイター、何でもやりました。特に思い出として残っているのは、似顔絵を描く仕事です。イベント会社に所属して、そこから太秦映画村やひらかたパークへ出かけるわけです。1枚描くと、300円ぐらいのバイト料だったかな。自分の好きなこと、得意なことで、子供たちに喜んでもらえたということが今の仕事の原点にありますね。

--ゲーム業界に入社されたキッカケは何ですか?

就職活動をしていた頃は、ゲーム自体はまだ脚光を浴びてない、むしろ「不良っぽい」イメージが残っていましたね。高校3年生の時にスペースインベーダーが出たんですよ。だから当時でも、世間の見方はゲーム=不良といった印象があったんじゃないかな。
そうした中、芸術系大学出身として、就職先はデザイン事務所か広告系を考えていたところ、新聞で「コンピュータグラフィックデザイナー募集」の採用広告に出会いました。その言葉自体が新鮮で、「これからはCGの時代だ」と感じました。それで面接に行ったところ、当時の面接官からいきなり「いつから来れる?」と聞かれて…。 卒業制作も残っている中、春を待たずして年明けから働きだしました(笑) その会社が新日本企画(後のエス・エヌ・ケイ)で、いわば入った会社がゲーム会社だったということです。

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--若手クリエイターの頃の思い出としては、どんなものがありますか?

新日本企画で初めて携わった仕事は、「ジョイフルロード」というタイトルのグラフィック制作でした。当時のドット絵の描き方というのは、4×4のマス目にドットを書いて、それを2進法で記述し、さらにそれを16進法表記に変換して自らコンピュータに打ち込むという方法でした。おまけに4色分として4回この作業を繰り返すんです。
自分自身、デザイナーというよりも単なるキーパンチャーみたいでしたね。また当時の開発は1チーム3〜4人という少人数の布陣だったため、おのずと、自分自身ゲームの企画兼グラフィックデザイナーという立場で仕事をするようになりました。
その頃、ナムコのマッピーやゼビウスをお手本にしていました。ナムコのゲームが面白くて、グラフィックのみならず、全体として目標にしていましたね。
一方、新日本企画自体は良くない経営状況だったこともあり、スタッフがどんどん辞めていくという厳しい環境でした。そんな中、私自身が出来ることはゲーム開発であり、当時3〜4人で制作中のゲームを完成させることに必死になりました。 それでリリースしたのが「ASO」というタイトルのシューティングゲームです。ステージボスという概念を取り入れ、そのボスを倒すためにステージ中にパワーアップを考えておかないといけない、という面白さを設定したのですが、それがお客様にウケてヒットになりました。
他のチームが制作した「T・A・N・K」や「怒」のヒットとあわせて、一気に会社も業績回復となりました。クリエイティブな仕事の面白さとともに、ゲームビジネスとしての凄さ、やりがいも実感することになりましたね。


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